2018
25
Jul

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頭ヶ島の集落③(頭ヶ島天主堂周辺とキリシタン墓地・長崎県新上五島町[頭ヶ島])

《訪問:2018年05月》

中通島とはこの短い水道を隔てただけですが、頭ヶ島は、江戸時代末期まで無人島でした。

無人島だった頭ヶ島に、迫害を逃れたキリスト教の信徒たちが住み着いたのは安政6(1859)年のこと。
長崎の外海から迫害を逃れて上五島にやってきたドミンゴ森松次郎が、長崎の大浦に司教が来ていることを地元のキリシタンにも伝えました。
慶応3(1867)年2月に、大浦のプチジャン司教の代理として密航者の姿でクゼン師が上五島にやってきました。そして、クゼン師はドミンゴ森松次郎を訪ね、信仰を隠さざるを得なくなってから225年の時を隔てて新しい秘跡と典礼を行いました。
同慶応3(1867)年4月にドミンゴ森松五郎の要請と、クゼン師の身の安全(明治政府が明治元年に出した高札でもキリシタン厳禁が掲げられていました。高札が完全に撤回されキリスト教が黙認されるようになったのが明治6年。公式にキリスト教の活動が認められるのは明治32年になってからです。)も含め、キリシタンの島であった頭ヶ島に移ったそうです。
ドミンゴ森松次郎は、この地にクゼン師を迎え、居館兼伝道師養成所を建て、五島各地から選抜された人がここで伝道師の教育を受けました。
その居館跡の碑が、頭ヶ島天主堂の裏に建っています。

明治の世になっても禁教が解けた訳ではなく、明治元(1868)年の末には頭ヶ島にもキリシタン迫害の波が及び、この居館兼伝道師養成所は一時監禁場所となりました。
ドミンゴ森松次郎は迫害を辛くも逃れ、明治2(1869)年プチジャン司教に伴われてマニラに留学したそうです。

この地には明治20(1887)年に信徒が木造の初代聖堂を建設、そして明治43年から大正8年の10年の歳月を費やし、現天主堂が建てられました。

天主堂の横には、2つのモニュメント。
ひとつは、「五島キリシタン復活信仰顕彰之碑」です。

ドミンゴ松次郎居館跡の碑の説明にも書いた通り、クゼン師による225年ぶりの新しい秘跡や典礼の実施を記念したものです。

もうひとつは、「ブレル師同伴信徒殉教者記念之塔」です。

明治18(1885)年に、外海の出津のドロ師のところにブレル師が来ていました。
上五島鯛ノ浦で危篤の患者が出て、最後の秘跡を強く望んだことから、12人の水夫が神父のお迎えの船を出津に出したそうです。
最後の秘跡を快く引き受けたブレル師でしたが、嵐に会って船は難破。
近くを通りかかった船に助けを求めて助けられたものの、ブレル師の金品に目を付けられ、ブレル師と12人の水夫は撲殺され海に放り込まれたと伝えられており、その殉教の様子を顕彰したものです。

頭ヶ島天主堂を後にし、シャトルバス乗り場に向かいます。

シャトルバス乗り場の手前の広場の右手にはキリシタン墓地が広がっています。

頭ヶ島天主堂の建つ入江は、中通島とは反対側。
しかも、前をロクロ島に隠されています。

まだ禁教の時代に、ドミンゴ森松次郎が居館兼伝道師養成所を建てた場所ですから、出来るだけ人目につかないところにしたんでしょうか。

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