2016
21
Jul

日本の城郭、 群馬

名胡桃城址(群馬県みなかみ町)

《訪問:2016年7月》

小田原の北条氏滅亡と、戦国時代終焉のきっかけとなった「名胡桃城」。
2016年は、多くの方が訪れそうですね。

国道17号に史跡が隣接していてとてもアクセスが良いだけに、逆に渋滞がおこらないといいのですが。。
名胡桃城①

駐車場は隣接するガイダンス施設と、般若曲輪にあります。
名胡桃城②

このお城が築かれたきっかけは良く分かっていません。
鎌倉時代から戦国時代にかけて利根郡を支配した沼田氏によって築かれたといい、その際、名胡桃氏が居館を置いていたと推定されています。
のち、天文年間に小田原の北条氏が赤城山を越えて利根郡に侵攻し、沼田氏を追放。
利根郡は北条氏の支配下に入りました。

永禄3年(1560年)に、上杉謙信が越後から三国峠を越えて進出し、名胡桃城ほか山城や砦、沼田の本城を攻略して、厩橋方面まで進出して北条氏と対峙しました。
上杉謙信の利根郡支配は10年余りも続きましたが、天正6年(1578年)に春日山城で上杉謙信が急死すると、上杉謙信の甥で謙信の養子になっていた上杉景勝と、越相同盟の結果、北条氏から謙信の養子となった上杉景虎の跡目争い(御館の乱)が勃発。
その際に、利根郡へ北条氏が侵攻。
再び、北条氏の支配下に入ります。

劣勢だった上杉景勝は、天正7年(1579年)、領土の割譲を約したうえで、勝頼の妹の菊姫を正室に迎えることで武田勝頼と同盟(甲越同盟)を締結。
その後、逆転して上杉家は景勝が継ぐことになります。

この甲越同盟の結果、東上野を武田氏が支配することが約されました。
もっとも、北条氏が支配しているエリアですから、武田勝頼は真田昌幸に利根・沼田地方の攻略を命じます。
真田昌幸は、吾妻郡の岩櫃城から、利根郡の名胡桃城などの山城や砦を攻略。
この際に、名胡桃城は、真田昌幸によって沼田城攻略の最前線として現在の形に築城されました。

そして、天正8年(1580年)に、真田昌幸は利根郡の中心地 沼田城を調略で手に入れます。

この後、沼田城を巡り、真田氏と北条氏の攻防が続きましたが、名胡桃城は沼田城の有力な支城として、沼田に攻め入ってくる北条氏を退けました。

この間、天下統一を着々と進めていた豊臣秀吉は、北条氏に対し上洛を求めましたが、北条氏は、上洛の条件として、真田領になっている利根・吾妻の2郡が欲しいと要求しました。
豊臣秀吉は、真田昌幸に対し、北条氏の要求を示しましたが、真田昌幸は沼田城は渡しても、名胡桃城は渡せないと回答。
それを踏まえ、天正17年(1589年)7月、利根川とその支流の赤谷川を境に、東を北条氏、西を真田氏とするとの裁定が決まり、沼田城は北条氏に引き渡されました。
(真田昌幸は、手放す沼田の代償として、信濃国箕輪に領土を与えられています。)

これにより、沼田城の城代となった北条方の猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城代 鈴木重則の家臣を寝返らせ、偽の書状で重則を上田城に呼び寄せた隙に名胡桃城を占領してしまいました。

この事件を知った豊臣秀吉は、大名間の私闘を禁じた「惣無事令」に反するとして激怒。
天正17年(1589年)11月に、全国の大名に号令を発して北条攻めを開始。
天正18年(1590年)7月に、戦国大名としての北条氏は滅亡し、戦国時代も終わりを告げます。

北条氏滅亡後、沼田領は真田氏に与えられ、名胡桃城は廃城となります。
長い年月の間に土塁は崩され、畑として利用されていましたが、大正時代に保存会が発足し、県の史跡になっています。

国道17号からすぐの場所が、丸馬出しと三の丸。
名胡桃城③

空堀は良く残っています。
まずは、二の丸堀。
名胡桃城④
名胡桃城⑤

そして、二の丸。
名胡桃城⑥

本丸堀。
名胡桃城⑦

堀を超えると、本丸です。
名胡桃城⑧

本丸には、徳富蘇峰の書になる石碑が建っています。
名胡桃城⑨

本丸から国道の方向を見たところ。
名胡桃城⑩

本丸の更に先へ向かいます。
名胡桃城⑪
名胡桃城⑫
名胡桃城⑬

袖曲輪からは、眼下の様子が手に取るように見えます。
名胡桃城⑭

群馬県利根郡みなかみ町下津3437
  • このエントリーをはてなブックマークに追加