《訪問:2011年6月》
「水攻め」といえば、やはり羽柴秀吉の備中高松城攻めですかね。
天正10年(1582年)、羽柴秀吉の軍2万と宇喜多勢1万は、備中の最前線、沼沢地にある平城(沼城)である備中高松城を攻撃します。
沼沢地で守りの堅い備中高松城。
秀吉側は2度攻撃するも、いずれも籠城軍に撃退されてしまいます。
そこで、秀吉は水攻めを思いつき、築堤を開始。
門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻までの約4キロメートルといいますから、後の太田城や忍城の築堤に比べると、かなり短いですね。(太田城水攻めの堤は約6㎞、忍城を水攻めにした石田堤は14㎞とも28㎞とも言われてます。)
高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固なもので、近世まで残っていたようですが、鉄道建設のための土砂として掘り出されてしまい、今は蛙(かわず)ケ鼻付近にごく一部が残るのみです。
足守川の水をせきとめて流し込みました。
梅雨時でもあり、どんどん水かさは増し、備中高松城は天守閣まで水没。
今残っている堤の前には、スケールが置かれています。
一番上が堤の高さで8m、次の横棒が本丸最上段の高さで7m。
水攻めが功を奏し、籠城側は場内を船で移動しなくてはならなかったとか。
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