《訪問:2016年5月》
利根川と荒川に挟まれた要衝・要害の地。
現在の埼玉県行田市にあったのが「忍城」です。
室町時代に成田氏によって築城されたと伝えられ、沼沢地などに守られた堅固な城で、関東七名城のひとつに数えられていいます。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には、石田三成を大将とする軍勢に攻められますが、小田原詰めを命じられた城主や主力が不在の中、水攻めにも耐えて、小田原開城の後まで落ちませんでした。
この辺りのお話は、「石田堤~忍城水攻め」の記事をご覧ください。m(__)m
小田原の北条氏滅亡後、関東には徳川家康が入府。
要害の地、忍城には、家康の後継者である秀忠の同母弟(家康四男)の松平忠吉が封ぜられています。
(実際は、松平忠吉が11歳と幼少であったため、深溝松平家の松平家忠がお城を預かっています。)
関ケ原の戦いの後、松平忠吉は尾張清州52万石に転じますが、その後の忍城は松平氏(親藩・譜代)か、歴代老中を務めた阿部氏の領地となります。
明治維新後、他の多くの城と同様、解体・払い下げの憂き目に会いますが、いくつかの遺構や再建されたものを見ることができます。
まず目を引くのは、御三階櫓。
外観のみの再現ですし、位置も史実とは違うようですが、現在の忍城の象徴ですね。
本丸跡には、「行田市郷土博物館」。
なかなか興味深い展示なのですが、写真撮影禁止なのでご紹介はできません。
SNSなどで、学芸員以外の目線で面白いと思ったものを流した方が、一般の方の興味を引くと思うんですけどね~。
博物館から奥の駐車場(忍中学校側)に向かうと、藩校進修館の門と伝えられる門。
また、主郭外に細く伸びる公園の先には、冠木門が再建されています。
国道を挟んで、城跡の反対側には忍諏訪神社。
明治維新後の払い下げでは、城の建物解体だけでなく、樹木も伐採されてしまいましたが、ここ忍諏訪神社そばの樹木だけは伐採を免れたといいます。
最後に、確実に忍城の遺構で、元々の場所が分かっている唯一の遺構をご紹介します。
それは、隣の加須市にある「不動ヶ岡不動尊總願寺」の黒門。
北谷門が移築されたものです。
関東三大不動に数えられる名刹ゆえに、古くなっても破却されずに修繕されて残っているんでしょうね。
【忍城跡】
【不動ヶ岡不動尊總願寺(北谷門移築)】