2016
5
Jul

日本の城郭、 和歌山

太田城水攻め遺構~日本三大水攻め(和歌山県和歌山市)

《訪問:2013年7月》

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの折。
根来寺の僧兵を始め、太田衆や雑賀衆が大阪に攻め上ります。
家康からの誘いに応じたとも、根来寺の寺領を献上するよう命じてきた秀吉に、実力で抵抗する姿勢を見せたとも言われます。

翌天正13年(1585年)。
羽柴秀吉自身が総大将を務め、羽柴秀長羽柴秀次を副将に、10万の兵力で紀州に侵攻。

根来寺の僧兵、雑賀衆、太田衆の連合軍を次々を破り、根来寺も陥落。

残る目標は、太田衆の本拠地「太田城」。
現在のJR和歌山駅の近くです。

太田衆と根来寺の僧兵の残存兵力5,000~6,000人が立て籠もる太田城を、秀吉は10万とも6万とも言われる兵力で包囲します。
雑賀衆の残存兵力は秀吉と結び、太田城は孤立無援の状態でした。

緒戦は太田城側が、秀吉側の送った斥候隊の待ち伏せに成功し、51人とも53人とも言われる兵を討ち取ります。
斥候隊の敗北を受け容易には攻めきれないとみたのか、羽柴秀吉は水攻めに切り替えました。

疑問な点もあるものの、紀ノ川の水を堰き止め、全長6㎞に渡る堤防をわずか5日で構築したといいます。

途中いくつかの攻防はあったものの、籠城1ヶ月の後、ついに、籠城側の大将 太田左近宗正は降伏を決意。
秀吉が、緒戦で打ち取られた51人とも53人とも言われる人数と同数の首を要求したため、太田左近宗正を始め51人(53人とも)が自害し、城は明け渡されました。

ここに紀州征伐は終わり、紀州は羽柴秀長に与えられます。
秀長は新たに和歌山城を築き、紀州統治の拠点とします。
(秀長は、最終的には大和・紀伊・和泉と河内の一部の110万石の大大名となります。最後の本拠地は、大和の郡山城ですね。平成28年度一杯は、天守台整備中です。)

太田城の遺構はほとんど残っていませんが、来迎寺が太田城本丸跡とされています。
境内には、大きな石碑があります。
太田城跡の碑-来迎寺

来迎寺の隣には「小山塚」の碑。
小山塚の碑
太田城開城の際に自害した51人(53人とも)の首は3ヶ所に分けて埋められましたが、そのうちのひとつがこの小山塚です。
ただ、この塚も、土地区画整理事業の一環でここに移転してきたようです。

水攻めの堤は、城から300mほどのところに築かれましたが、その一部が太田小学校付近に残っています。
太田城水攻めの堤跡

「きのくに信用金庫出水支店」を目指していけば分かりやすいと思います。
太田城水攻め堤跡②

そして、太田城の大門を移築したものと伝えられるのが、太田城本丸跡(来迎寺)から和歌山城方面に向かったところにある大立寺の山門です。
太田城大門遺構-大立寺
お寺の説明書きによると、太田城の山門は紀州征伐後に功徳寺というお寺に移築され、第二次世界大戦後、大立寺に移築されたそうです。

【来迎寺/太田城本丸跡】

</p> <p>【小山塚】<br /> <div class="simplemap"><div class="simplemap-content" data-breakpoint="480" data-lat="34.2305601" data-lng="135.1961788" data-zoom="16" data-addr="" data-infowindow="close" data-map-type-control="false" data-map-type-id="ROADMAP" style="width:695px;height:500px;"></div></div>緯度経度で指定

【秀吉水攻めの堤跡】

緯度経度で指定

【大立寺/太田城大門の移築先】

和歌山県和歌山市橋向丁11

  • このエントリーをはてなブックマークに追加