《訪問:2016年2月》
「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」。
大阪城落城からほどない頃に歌われた、京童たちの流行り唄です。
落城当時、豊臣秀頼の遺体は見つからなかったため、生存説が流布したと思われます。
そんな伝説を具現するように、鹿児島市には「伝 豊臣秀頼の墓」があります。
鹿児島市谷山中央四丁目の住宅街の中にあるのですが、車を停める場所はありません。
国道225号を北(鹿児島の中心市街地方面)から車で向かうと、「本町」交差点(かるかんの「明石屋」谷山店)を右折します。
途中で「伝 豊臣秀頼の墓」の案内看板がありますが、車の場合はそこを曲がらず、橋の手前を左折。
左にいける最初の道の周辺に車は停めて、そこからは歩きですね。
右手には、「木之下ちびっこ広場」。
中には、保存状態の良い「田の神」が祀られています。
三叉路を直進すると、道は右にカーブしています。
そのカーブのところを左に入り、その奥にある個人のお宅に「伝 豊臣秀頼の墓」はあります。
発掘調査はされていますが、下からは何も出なかったとか。
初代谷山氏の供養塔という説もあるそうです。
この谷山界隈には「谷山犬のくれ逃げ(無銭飲食)」という言い伝えがあります。
谷山に他所からやってきた大男が毎日大酒を飲んで、町の中を暴れまわったり、無銭飲食をくりかえしていたといいます。
しかし、島津の殿様からは、その大男にに一切無礼なふるまいがあってはならないというお達しがあったので、人々は恐れ、逃げかくれしていたということが伝えられています。
この大男が豊臣秀頼ではないかという言い伝えですね。
冒頭の童唄。
真田信繁(幸村)が薩摩に落ちたという伝説を私が初めて知ったのは、落語の「真田小僧」。
お時間がありましたら、ご覧ください。m(__)m