《訪問:2014年6月》
戦国末期の人間模様。
宇喜多秀家の顛末に、石田三成の末裔。
天下人に連なる織田家や木下家の去就。
そして北条家や足利家まで。
興味は尽きません。
そして、大阪夏の陣で徳川家康本陣に突撃し、家康に自害を覚悟させたともいう真田信繁(幸村)。
その血脈でさえ残っているのは、その当時の武将たちの気概のようなものを感じてしまいます。
真田信繁の三女、「阿梅(おうめ)」が、なぜ、大坂夏の陣で、真田信繁と直接矛を交えた伊達政宗の重臣である片倉小十郎重長(景綱の子)に保護され、その妻(継室)になるに至ったのか?
説は2つあるそうです。
ひとつは、「片倉代々記」などに記述があるように、大阪城落城の折に、片倉重長が戦利品として獲得(乱取り)したというもの。
いまひとつは、俗説として良く知られているもので、次のようなものです。
慶長20年(1615年)5月6日の誉田の戦いにおいて、伊達隊の先鋒であった片倉重長は、真田隊と激しく戦いました。
その時の、「鬼の小十郎」の異名をとる片倉重長の武者ぶりが敵ながら天晴れであるというので、真田信繁(幸村)が重長を見込んで、落城の前に阿梅らを送り届けてきたというものです。
いずれが真実なのかは今となっては分かりませんが、徳川からすれば逆賊の子を保護し、あまつさえ妻にするのですから、記録に残す際には戦利品だったことにしたのかなぁなんて、勝手な想像をしてしまいます。
まぁ、当時のこと、女子を保護したあたりはそういうこともあるかなと思いますが、更にすごいなって思うのは、嫡流男子を保護していることです。
真田信繁(幸村)の正室は、五奉行のひとり、大谷吉継の娘の竹林院です。
関ケ原の戦いまでは、信繁には庶流も含めて女児しかいませんでしたが、九度山に蟄居している時に、竹林院との間に男児が2人生まれています。
長男の真田大助幸昌は、生まれ年は諸説ありますが、大坂夏の陣で豊臣秀頼の切腹に殉じて亡くなったときには、11歳~14歳と言われています。
(当時の京で流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡があり、秀頼も信繁も大助も生存しているという説もありますが、それはまたのお話し。)
そして、次男の大八は慶長17年(1612年)の生まれですから、大坂夏の陣の折には、まだ3歳ですね。
姉の阿梅が片倉小十郎重長に保護された際に、どうして他の姉妹(阿菖蒲とおかね)たちとともに、弟も一緒に保護されたのか。
その経緯は良く分かっていません。
俗説のように真田信繁が片倉重長を見込んで送り届けてきたのか、大阪城でまとめて乱取りされたのか、他のところに身を潜めていたところを片倉家に探し出されて保護されたのか。
いずれにせよ、大八は、武士としてきちんと片倉家で養育されています。
寛永17年(1640年)、28歳の時に伊達家(仙台藩)に召し抱えられて、真田四郎兵衛守信と名乗りました。
しかし、逆賊真田の子を召し抱えたのではないかと幕府が咎めて、すぐに仙台藩に詰問状が届いたそうです。
伊達家は、真田信繁の次子・大八は石投げで死んでいるとの記録を持ち出して弁明し、守信は「真田信尹の次男・政信の子」だと説明して事なきを得ました。
しかし、真田姓を憚って片倉姓に戻し、片倉久米之介守信と改名して、仙台藩士として扶持300石を与えられたそうです。
仙台真田氏が真田姓に復するのは、大八(守信)の子 辰信の時といれれています。
その阿梅と大八の墓標が、白石市の当信寺にあります。
ちなみに、当信寺の山門は、白石城の東口門(二の丸大手門)を移築したものです。
左のくねった形の墓標が姉 阿梅もの。
如意輪観音像を墓標としたものですが、墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まったため原型を留めていません。