2016
29
Jun

宮城、 墓所

片倉喜多[伊達政宗乳母]の墓(宮城県白石市)

《訪問:2014年6月》

喜多は、母が片倉景重と再婚した際に、連れ子として片倉家に入っています。
その後、喜多の母は、弘治3年(1557年)に異父弟の片倉小十郎景綱を生んでいます。

喜多は天文7年(1538年)の生まれですから、小十郎景綱とは19歳も違っているんですね。

喜多は文武両道に通じ、兵書を好み講じるほどで、弟の景綱も喜多の教化を強く受けて育ったといいます。

その後、伊達輝宗の命により、永禄10年(1567年)8月3日 に誕生した伊達政宗の乳母を拝命します。
もっとも喜多は未婚でしたから、実際は保育・養育係であったと考えられています。
そして、伊達政宗の名君としての素地・人格形成に強い影響を与えたました。

また、天正3年(1575年)には弟の片倉小十郎景綱も政宗の近侍となりました。
伊達の忠臣、片倉小十郎の始まりは、喜多の影響が大きいのかもしれませんね。

奥州仕置きの後、豊臣秀吉の人質となった伊達政宗正室の愛姫と共に文禄3年(1594年)に上洛し、伏見の伊達屋敷にて奉公しています。
豊臣秀吉に拝謁した際、秀吉は喜多の才を愛し「少納言」と賞揚したといいます。
それで、お墓の案内板にも「小納言喜多」とあるんですね。
片倉喜多墓所①

ところが、その後、伊達政宗の勘気を被り、国許での蟄居を命じられてしまいます。
一説では、豊臣秀吉が伊達政宗の愛妾に懸想して献上を迫った時に政宗は渋っていましたが、喜多は伊達家の身を案じ、政宗の許可を得ずに政宗が留守のときに献上してしまい、その独断を怒ったからだといいます。

最終的には、片倉小十郎景綱が白石城主になると、弟に従い、白石に移り住み、そこで亡くなっています。

墓所は、片倉家廟所のすぐ隣にあります。
片倉喜多墓所②

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