《訪問:2014年6月》
伊達政宗の近習で、軍師的存在だった、片倉小十郎景綱。
仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は、歴代の当主が踏襲して名乗りました。
嫡男・重長は大坂夏の陣における道明寺の戦いで後藤又兵衛基次らを討ち取るなど奮戦し、「鬼の小十郎」の異名を取りました。
さらに重長の子・景長もまた小十郎を名乗り、伊達騒動の渦中にあって幼き主君・綱村を支えました。
代々伊達氏に仕えた「片倉小十郎」の名跡は、以後、伊達家忠臣の鑑と称されました。
その初代「片倉小十郎」の景綱の頌徳碑が、白石城内に建てられています。
景綱は、小田原征伐に際しては豊臣秀吉方へ参陣するよう述べ、伊達政宗に小田原参陣を決意させています。
また、景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価され、奥州仕置の際、秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしましたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退しています。
景綱が白石城主に任じられたのは、慶長7年(1602年)。
一国一城令の例外として残されら白石城の城主として、1万3千石を賜りました。
一方、片倉家の廟所は、白石城を真東に望む、愛宕山にあります。
ここに廟所を造ったのは、3代の景長。
仙台から石工を呼び寄せ、て阿弥陀如来坐像を彫らせて墓標としました。
廟所のすぐそばには、初代・景綱に殉死した家臣のお墓もあります。
【白石城】
【片倉家廟所】