2016
22
Jun

宮城

サン・ファン・バウティスタ号~慶長遣欧使節の乗船(宮城県石巻市)

《訪問:2014年6月》

ドン・ロドリゴ一行の乗るサンフランシスコ号が、今の千葉県御宿沖で座礁し、日本側の計らいで無事帰国できたのは慶長15年(1610年)。
その聘礼使として、セバスティアン・ビスカイノ一行が来日し、日本近海を測量したところは「メキシコ記念塔」の記事でご紹介しました。

ビスカイノ一行が日本近海を測量したのは、貿易港として適した港を見つけるためでした。
サン・ファン・バウティスタ号①

ビスカイノが江戸を出て初めて訪れたのは仙台。
その前に江戸で、戦国を切り抜けてきた武将 伊達政宗と、荒海を渡ってた探検家 ビスカイノは会っています。

修道院に行く途中のビスカイノ一行は、「2,000人以上の兵と騎馬」(ビスカイノの記述なので誇張があるかも)を引き連れた伊達政宗と会いました。
伊達政宗は、ビスカイノ一行を認めると、礼砲として火縄銃2発を打ち上げたそうです。
そこでひと騒動。
銃声に驚いた周囲の馬が暴れだし、人や積み荷を振り落とす騒ぎになったんだとか。
政宗もビスカイノも、騒ぎには動じず、その騒動が可笑しいと共に大笑い。
騒動が収まると、政宗はビスカイノ一行に近づいて深々と礼をし、使節への協力を申し出たそうです。
江戸の市中で鉄砲を撃ち放すなど、まだまだ戦国の気風が残ってますね。
後の世なら、いくら伊達政宗でも大問題です。

こうした関係が、最初の測量は奥州で行うことに繋がったのかもしれませんね。
サン・ファン・バウティスタ号②

慶長三陸地震とその大津波の影響で、三陸沿岸は壊滅。
もともと海外交易を志向してた政宗ですが、貿易による領内復興を目指し、メキシコとの直接貿易を強く進めたとする説があります。
(秘密裡に軍事同盟を結んで討幕を目論んだなんて説もありますが、少なくとも使節を送る許可を幕府から得ているのでどうなんでしょう?)
一方のビスカイノも、日本からの帰国途中に暴風雨にあい乗船のサンフランシスコⅡ世号は破損し、浦賀に戻ったものの今度は江戸幕府の援助が得られず困っていました。

いわば両者の思惑が一致し、ビスカイノの協力のもと、日本初の西洋式軍船である「サン・ファン・バウティスタ号」が建造されました。
サン・ファン・バウティスタ号③

「洗礼者ヨハネ」の名を持つ、全長55m・約500トンのガレオン船です。
建造には、船大工だけでも800人、総勢4,000人が動員されたそうです。
サン・ファン・バウティスタ号④

そのサン・ファン・バウティスタ号は石巻の月の浦から出港したのですが、その石巻市内に再現され、その船を中心に資料館や飲食施設などが「サン・ファン館(宮城県慶長使節船ミュージアム)」として整備されています。
サン・ファン・バウティスタ号⑤

東日本大震災でも被災したものの、再現された船は津波への強さを見せて外販の一部の破損ですみました。
(展示施設そのものは、甚大な被害を受けています。)
ただ、その後の暴風雨の影響で3本のマストのうち2本が折れるなど大きな傷を負ってしまいました。
2013年11月に復旧して、今、再び目にすることができます。
サン・ファン・バウティスタ号⑥

歴史に「もしも」はありませんが、日本が鎖国政策を取らず、第2・第3のサン・ファン・バウティスタ号が造られていたら、その後の日本はどのようになったんでしょうね。
サン・ファン・バウティスタ号⑦

慶長遣欧使節については、また書こうと思いますが、サン・ファン・バウティスタ号の顛末だけ先に触れてしまいます。
最初に使節を送って日本とメキシコ(アカプルコ)を1往復。
帰ってくる使節を迎えにアカプルコまで行き、使節を乗せてマニラへ。
しかし、そこでフィリピンの軍備増強を進めていたスペインへの売却を余儀なくされ、その後の消息は不明です。

宮城県石巻市渡波大森30-2
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