2016
21
Jun

千葉

メキシコ記念塔~慶長遣欧使節の起点(千葉県御宿町)

《訪問:毎年》

慶長14年(1609年)9月30日。
スペイン領フィリピン総監のドン・ロゴリゴを乗せた帆船 サンフランシスコ号は、メキシコに向け航海中に台風に遭遇。
御宿町の岩和田海岸で座礁してしまいました。

メキシコ記念塔より少し東に行ったところに、ドン・ロドリゴ上陸地の碑があります。
ドン・ロドリゴ上陸の碑

この岸辺で座礁したんですね。
ドン・ロドリゴ上陸地

乗組員373人のうち、56人は溺死、残る317人は岩和田の村人によって救助されました。
この時、海女たちは飢えと寒さと不安にうちふるえる異国の遭難者たちを、素肌で温めて蘇生させたと伝えられています。

当時、御宿は大多喜藩の領地で、藩主は本多忠朝
関ケ原の戦いで勇戦して戦功を上げ、父の本多忠勝が桑名に移封したあと、大多喜藩5万石を与えられました。

本多忠朝の判断で、乗員たちは37日間、御宿の大宮神社に滞在して村民の手厚い保護を受けた後、江戸城で将軍 秀忠に拝謁、更に駿府に行き、大御所 家康にも拝謁しました。

慶長15年(1610年)、家康が三浦按針(ウィリアム・アダムズ)に建造させた新しい船を与えられ、乗員たちは、無事メキシコに到着することが出来ました。

これらの出来事を後世に伝えるべく、昭和3年(1928年)に、この記念塔が建立されました。
メキシコ記念塔

記念塔の先には眼下に海が広がっています。
メキシコ記念塔から見た海

ちょっと頑張ると(笑)、御宿/岩和田海水浴場の美しい海岸線が一望できます。
メキシコ記念塔付近から見た岩和田・御宿海水浴場

さて、後日譚です。

その翌年、慶長16年(1611年)に、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王 ルイス・デ・ベラスコにより聘礼使として、セバスティアン・ビスカイノが派遣されました。
当時のメキシコもスペイン領で、副王が統治していたんですね。

サンフランシスコⅡ世号で来日したビスカイノは、江戸で将軍 秀忠に、駿府で大御所 家康に拝謁。
通商を第一に望んでいた日本に対し、メキシコ/スペイン側はキリスト教(カトリック)の布教が前提条件であったため、具体的な合意には至りませんでした。
イギリス人の三浦按針(ウィリアム・アダムズ)の存在も影響したでしょうか。
同じキリスト教徒でも、イギリスは英国教会、オランダはカルヴァン派のプロテスタント。
そうした世界史的な流れで見ると、17世紀初頭というのはとても面白ですね。

家康から、沿岸の測量の許可は得られたビスカイノ、仙台で伊達政宗に拝謁し、奥州沿岸の測量を始めます。
その最中、慶長15年(1611年)12月2日、慶長三陸地震とその大津波に曹禺しますが、海上にいたため無事でした。
その後、九州まで南下して測量を行っています。

慶長17年(1612年)9月に家康・秀忠の返書を受領して帰国の途につきますが、暴風雨に会い、サンフランシスコⅡ世号は破損。
この後、あれこれあって慶長遣欧使節に繋がるのですが、それはまたのお話し。

【メキシコ記念塔】

緯度経度で指定

【ドン・ロドリゴ上陸地】

緯度経度で指定

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