2016
19
Jun

東京

宇喜多秀家の墓碑(東京都板橋区)

《訪問;2016年3月》

八丈島への公式流罪人第一号の宇喜多秀家。
長男秀高(孫九郎)から2家が、次男秀継(小平治)から5家が分かれ、7家が存続しましたが、江戸時代を通じて、子孫も島を出ることは許されませんでした。
これには驚きましたね。

そして、江戸時代を通じ、子孫たちにも、宇喜多秀家の正妻だった豪姫の実家・加賀前田家の援助が行われたそうです。
(もっとも、対象者が増えても隔年で米70俵というのは変わらなかったようですが。)

江戸幕府が倒れ、明治2年(1869年)4月、明治政府より八丈島の宇喜多一族赦免の布令が発せられました。
明治3年(1870年)8月、宇喜多一族7家71名(75名とも)は前田家のさしまわした便船に乗り、東京へ向かいました。
品川に入港した宇喜多一族は、一時本郷の法真寺に50日ほど滞在ののち、前田家より板橋にあった加賀藩江戸下屋敷内に急造した共同長屋を与えられ、ようやく旅装を解くことができたといいます。
そして、各々一介の農民となって開墾に励んだといいます。
明治6年(1873年)になって明治政府は宇喜多家に板橋に19,900坪の宅地を与え、長年の労を労いました。
そこで子孫たちは宇喜多秀家の墓碑をこの宅地内にが建立し、中には秀家の遺品を納めたといいます。

のち、区画整理や戦災の影響で、板橋・平尾宿の東光寺境内に移され、現在に至っています。

墓碑の中央の球の部分に「秀家卿」と刻まれています。
宇喜多秀家墓碑①-板橋

墓碑は、東光寺の入口を入って、すぐ左手にあります。
東光寺入口
宇喜多秀家墓碑②-板橋

東光寺の本堂は、新しいものでした。
宇喜多秀家本堂

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