2016
16
Jun

東京

宇喜多秀家住居跡(東京都八丈町)

《訪問:2016年2月》

関ケ原の戦いに敗れ、八丈島へ流罪となった宇喜多秀家。
(流罪となるまでの経緯は、こちらをご覧ください。)

関ケ原の戦い後、2年半に及ぶ薩摩・大隅での潜居、2年ほどの久能山での幽閉を経て、慶長11年(1606年)に八丈島に遠流。
生涯をこの島で終えます。
流された時は33歳とも34歳とも言われていますし、亡くなったのはやはり83歳とも84歳とも。
島で50年を生きたんですね。
将軍も2代・秀忠の世から、4代・家綱の世になっていました。

流人とはいえ、高貴な身分もあって、他の流人よりは優遇されていたいともいいます。
妻だった豪姫の実家の加賀・前田家からは、隔年で70俵の米の援助が続けられていました。
(最初は秘密裡に、後年は幕府公認だったそうです。)
徳川家の手前、関ケ原の戦いの後に前田家側から離縁されていますが、豪姫は他家に嫁ぐことなく、八丈島の秀家に色々な品物を贈りながら、再会できる日を祈っていたといいます。

ちなみに、この援助、子孫にも続けられ、明治維新まで続いたそうです。
加賀百万石の懐の深さを感じますね。

さて、住居跡ですが、道路を車で走っていると、大きな看板が目に入ります。
宇喜多秀家急遽跡-・案内①

これをみたら、この場所(お店です)が住居跡かと勘違いしてしまいそうですが、慌てずに。
すぐ隣の民家の、更に奥が住居跡です。
宇喜多秀家急遽跡-・案内②

なんか、お家の軒先を通っていくのが気が引けますが。。(^^;)
宇喜多秀家急遽跡-・案内③

その場所には、新しい石碑が整備されています。
宇喜多秀家急遽跡-・石碑

実際の場所は、半ば残されている石垣とその前に築かれた小さな祠なんでしょうか。
宇喜多秀家急遽跡-

右手にはソテツと池の跡も残っていますね。
宇喜多秀家急遽跡-ソテツ
宇喜多秀家急遽跡-池跡

住居跡内の位置関係は、こんな感じです。
宇喜多秀家急遽跡②

【関連記事】
 ・宇喜多秀家潜居跡とその周辺(鹿児島県垂水市)

緯度経度で指定
  • このエントリーをはてなブックマークに追加