2016
15
Jun

鹿児島

宇喜多秀家潜居跡とその周辺(鹿児島県垂水市)

《2016年2月》

豊臣政権を支えるべく制度化されたいわゆる五大老・五奉行。
慶長3年(1598年)の秀吉病没時、豊臣政権下での五大老は次のとおりでした。
 ・徳川家康 … 関東に256万石
 ・前田利家 … 北陸・加賀に83万石
 ・宇喜多秀家 … 備前57万石
 ・上杉景勝 … 会津120万石
 ・毛利輝元 … 中国地方に120万石
五大老については、豊臣秀吉の死後は、徳川家康が伏見で政務にあたり、前田利家が大阪で秀頼の傅役となりました。

慶長4年(1599年)の前田利家の死後、徳川家康の専横を掣肘できる存在は無くなり、利家を継いだ利長は家康に屈服して人質を供出。
残る3家は関ケ原の戦いに敗れ、大幅厳封(上杉景勝:会津120万石⇒米沢30万石、毛利輝元:中国地方120万石⇒防長37万石)や改易(宇喜多秀家)となりました。

その宇喜多秀家
「備前宰相」と呼ばれた秀家は、関ケ原の戦いにおいては西軍の副大将として石田三成・大谷吉継らとともに檄文を発し、伏見城を総大将として攻略、関ケ原本戦では西軍では最大の兵(17,000人)を率いて主力として奮戦。
しかし、小早川秀秋などの裏切りで敗北。
宇喜多秀家の軍団は壊滅してしまいました。

西軍に属した大名でも、軍団を保持しえた大名は最悪厳封になったとしても家名の存続はできました。
毛利、上杉をはじめとして、島津もそうですね。

しかし、軍団が壊滅してしまった宇喜多秀家は改易。
伊吹山中で潜伏後、正室の豪姫(実家は前田家)と大阪・備前屋敷で再会するも留まることは許されず、変装して島津義弘を頼って薩摩に逃れました。
ちなみに、この時に豪姫と会った際に、豪姫は次女を身籠りますが、後々、この次女は伏見宮親王家に嫁いでいます。

島津義弘は、ここ大隅国牛根郷で豪族で、平家の落人の末裔である平野家の上屋敷で匿ったといいます。
宇喜多秀家潜居跡-垂水・牛根

牛根での潜伏は2年半に及びますが、島津が宇喜多秀家を匿っているという噂が流れたため、島津忠常(義弘の子)によって徳川に引き渡され、駿河の久能山に幽閉されます。
処分については島津忠恒前田利長(宇喜多秀家の元正室・豪姫の兄)の懇願により罪一等は減じられ、八丈島に流罪となりました。
八丈島というと「遠流の島」というイメージがありますが、公式史上最初の流人は、宇喜多秀家とその子(長男と次男)だったんですね。

宇喜多秀家潜居跡へは、国道220号線を車で走っていると小さな案内看板が見えます。
宇喜多秀家潜居跡案内①

標識に沿って進むと、駐車スペースに着きます。
宇喜多秀家潜居跡案内②

そこから少し歩き、階段を下ります。
宇喜多秀家潜居跡案内③

そして、集落の中の小さな道を進んでいくと、まずは「七人塚」があります。
宇喜多秀家潜居跡への道①
宇喜多秀家潜居跡案内④

ここは、平家の落人だった平野家に差し向けられた源氏の刺客を返り討ちにし、その七人の霊を手厚く供養したものと伝わります。
七人塚-垂水・牛根
そこから更に上へ。
宇喜多秀家潜居跡への道②

階段を上った先に、宇喜多秀家の潜居跡はあります。
宇喜多秀家潜居跡への道③
宇喜多秀家潜居跡-垂水・牛根

牛根での宇喜多秀家は、七人塚や約3㎞離れた居世(こぜ)神社に日参していたといいます。

その居世神社は、国道220号を桜島方面に進んだ国道沿いにあります。
居世神社-垂水・牛根

居世神社は、安徳天皇が壇ノ浦の戦いの後に入水せずに大隅に逃れたとの伝承のもと、安徳天皇を祀っている神社です。
居世神社②-垂水・牛根

戦いに敗れ逃れた自らの姿に重ね合わせていたのでしょうか。

活発に噴煙を上げる桜島が見守っています。
桜島-居世神社前

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緯度経度で指定

【居世神社】

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