2016
13
Jun

ブログ、 千葉、 遺跡

国府台古戦場-里見公園(千葉県市川市)

《訪問:2012年5月》

里見公園は下総台地の西端、現在の江戸川(かつては渡良瀬川の下流にあたる太日川)に面した台地上にあり、一帯は国府台と呼ばれて下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。

この国府台に太田道灌が仮陣を築き、文明11年(1479年)には道灌の弟の太田資忠らが城を築いたのが、国府台城の始まだそうです。
国府台城跡の碑

ここで、戦国時代に小田原の北条氏と房総諸勢力が2度にわたり激突。
共に北条氏が勝利をおさめ、下総・上総の多くは北条氏が制覇することになりました。

第一次国府台合戦は、天文7(1538)年10月。
この頃の室町幕府とその関東政権は分裂・抗争を繰り広げていました。
鎌倉から離れて茨城県の古河に拠点を設け、古河公方と呼ばれていた関東の公方。
更に古河公方と対立し、武田氏の流れの真里谷氏の小弓城に迎えられて小弓公方と呼ばれた足利義明。
古河公方などと抗争を繰り返し、下総国一帯に勢力を張っていました。

一方、東に勢力を拡大してきた北条氏2代目の北条氏綱。
鎌倉や江戸を制覇し、更に葛西城も制圧。
北条氏綱は古河公方とも手を組み、小弓公方の足利義明との間で緊張が高まります。

足利義明は、里見義堯ら軍1万を率いて国府台城に入城。
一方の足利氏綱も軍2万を率いて江戸城へ。

自らを恃むことが強かった足利義明は、作戦上、里見義堯と対立。
みすみす北条軍の渡河を見過ごした足利義明は、里見義堯の援けを得られないまま戦闘に突入し、敢え無く戦死してしまいます。

この結果、下総は北条氏の勢力圏に入り、里見氏は上総南部を制圧しました。

第二次国府台合戦は、永禄6年と7年(1563年と1564年)の2回の合戦を近年まで混同して1つの合戦と考えられていたものです。
ただ、いわばメインの戦いといえるのは、永禄7年(1564年)の合戦。
北条・里見ともに、第一次国府台合戦から代替わりし、北条氏は氏綱の子 氏康、里見氏は義堯の子 義弘。
北条氏康と上杉謙信の争いの一環で、謙信の依頼を受けて里見義弘は房総諸将1万2千を率いて国府台城に入城。
千葉氏の援軍要請に応えた北条氏康は軍2万を率いて江戸城に入りました。

緒戦は里見氏が勝利し、正月早々だったこともあって里見義弘は兵に酒を振る舞います。
しかし、油断大敵。
北条軍の夜襲を受け、里見軍は潰走。
上総は一気に北条氏に制圧されてしまいます。

戦線が小さくなり、その後は里見義弘も盛り返し、安房は堅持しました。

第二次国府台合戦での里見側の戦死者は5千人とも言われ、長くその戦死者を弔う者もありませんでしたが、江戸時代後期の文政12年(1829年)になって、里見諸士群亡の碑、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられました。
里見諸士群亡の碑

里見諸士群亡の碑に隣接する「夜泣き石」にも悲しい伝説が伝わっています。
夜泣き石-里見公園

第二次鴻田合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がおり、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。
しかし、身も心も疲れ果てた姫は、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまいましたそうです。
以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説が生まれました。

こうした石碑等の奥には、全長40mの前方後円墳「明戸古墳」。
明戸古墳①-里見公園
明戸古墳②-里見公園

実は、この古墳の頂上が市川市の最高点だったりします。
市川市最高点の碑

太田道灌がここに仮城を造営した際に、古墳の盛土が取り払われ、石棺が露出しています。
この古墳自体は、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)の豪族のものと推定されています。
明戸古墳石棺-里見公園

この石棺の蓋は、「夜泣き石」の台座になっています。

江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。
国府台からの眺め

公園の南斜面下には、「羅漢の井」。
羅漢の井-里見公園

里見一族が布陣の際の飲用水として使用したと思われ、高台にあって水源が乏しいにもかかわらず一年中清水が湧いています。

バラの美しい公園ですが、色々と悲しい歴史もあるんですね。
里見公園のバラ園⑤

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