2016
28
Mar

燃えよ剣、 東京、 巨樹

土方歳三資料館と土方歳三墓所(東京都日野市)

《訪問:2015年05月》

立川から高幡不動へ向かう、多摩都市モノレール。
高幡不動駅のひとつ手前の「万願寺」駅から徒歩5分ほど。

土方歳三生家を建替え、今もご子孫が住まわれているお宅に、土方歳三の遺品などを展示している「土方歳三資料館」があります。
土方歳三資料館

ご自宅の一部を開放しているものですので、開館日は限られています。ご注意を。
土方歳三資料館プレート

基本は、第一・第三日曜日とGW期間中。
事前に、資料館のHPでご確認下さいね。

特に、土方歳三の佩刀の「和泉守兼定」は、命日の前後(4月と5月)のみの公開ですので、ご注意下さい。

庭に入ると、土方歳三の胸像が迎えてくれます。
土方歳三胸像-土方歳三資料館

土方歳三は、武蔵国多摩郡日野宿石田村で土方義諄の末子として生まれました。
名は義豊といったそうです。

生家には、「将来武士になったらこの竹で矢を作る」と言って土方歳三が植えたとされる矢竹があります。
土方歳三手植えの矢竹-土方歳三資料館

家は、石田散薬という打ち身・捻挫などに効くとされる外傷薬を製造・販売しており、豪農としても豊かでした。
資料館の庭には、その名を記した幟が立てられていました。
石田散薬幟-土方歳三資料館

父は早くに無くなり、次兄・喜六夫妻の手で養育され、丁稚奉公を経て、家伝の石田散薬行商の傍ら、義兄・佐藤彦五郎宅の道場で天然理心流の剣を学びました。

1863年(文久3年)、近藤勇らと共に上洛、新選組副長として活躍しました。
1867年(慶応3年)、士分に取り立てられました。
そして、負傷した近藤勇に代わり、新選組を指揮して鳥羽・伏見の地で戦ったものの新政府軍の勝利。
関東に戻り、甲陽鎮撫隊を結成し、近藤勇の刑死後も奥羽各地で転戦しました。

旧幕軍の箱館政府樹立後は陸軍奉行並となり、前線で指揮を続けましたが1869年(明治2年)5月11日、箱館攻防戦の最中、流弾に斃れました。(函館には「土方歳三最期の地」という場所があります。)
ただ、遺体の安置場所は、今も特定されていないそうです。
享年35歳でした。

資料館では、こうした来歴が分かりやすく展示されていると共に、様々な遺品が展示されています。

中でも、佩刀「和泉守兼定」は必見ですね。
刃毀れも多く、実戦をくぐる抜けてきたことが偲ばれます。

ただ、この刀、どうやってもたらされられたのか諸説があってはっきりしません。

今や誰もが知っている土方歳三の写真や、遺髪などは土方歳三の小姓を務めていた新撰組隊士 市村鉄之助に託され、箱館から生家までもたらされましたが、その時、彼は佩刀を持ってきていないという話もあります。(土方歳三からの指令で、路銀にするため、佩刀は売却したとの話も。)
土方歳三が和泉守兼定を何本も持っていたという説もあり、さて真相はいかに?
ちなみに、市村鉄之助は西南戦争で薩摩軍に身を投じ、22歳で亡くなっているそうです。

資料館を出て、土方歳三の墓所に向かいます。

途中、旧石田村の名主 伊十郎の屋敷の長屋門が残っています。
伊十郎長屋門

モノレールの通りを超え、住宅街を抜けていきます。
土方歳三資料館からは500mほどでしょうか。

立派な佇まいの石田寺(せきでんじ)。
石田寺山門-土方歳三墓所

山門を入ってすぐ右側が墓地です。

墓地に立ち入らせて頂くと、その中に土方家のお墓があり、右手にはご子孫が供養のために建立された土方歳三の墓所があります。
土方歳三墓所①-石田寺
土方歳三墓所②-石田寺
土方歳三墓所③-石田寺

もちろん、ここに埋葬されている訳ではありません。
それでも、5月第二日曜日の「歳三忌」には、大勢のファンが集うそうです。

墓地の手前側に碑があったので見てみると、「土方歳三義豊之碑」とありました。
土方歳三義豊之碑-石田寺

土方歳三を養育した、次兄 喜六の曾孫の方が、明治100年を記念して建立したそうです。
(土方歳三が亡くなったのは明治2年)

本堂のすぐそばに、樹齢400年を超えるカヤの大木。
石田寺のカヤ

これも、土方歳三は見たんでしょうね。

お天気が良かったので、高幡不動までモノレールひと駅分を歩きました。
矢車草-日野市石田地区

途中、浅川を越えます。
浅川-石田地区~高幡不動

ここも若き土方歳三が駆け巡ったのでしょうか。

【関連記事】
 ・土方歳三銅像と「殉節両雄の碑」-高幡不動(東京都日野市)
 ・土方歳三最期の地-一本木関門(北海道函館市)

【土方歳三資料館(生家の地)】

緯度経度で指定

【土方歳三墓所(石田寺)】

緯度経度で指定

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